(旧)自立生活センター・昭島の日常

東京都昭島市でひっそりと(笑)活動している福祉団体。地域で暮らす障害者の生活サポートや情報提供、移送サービスなどをやっています。

車イスか?、車いすか?(その4)

皆様、いかがお過ごしだったでしょうか?
「当時書の日常」担当のKでございます。


前回(10/18)分のコーナーでは「発想の違い」を
知るために「海外の車いすの歴史」を調べました。
※詳しくは、(その3)をご覧下さい。

今回は、第2弾として「日本の車イスの歴史」について調べてみようと思います。

車いすの前に…
日本では、中世・近世には疾病などで歩行が困難者が使用する「土車」「いざり車」と呼ばれる
車いすの原型と呼べるものが存在していました。箱もしくは板に四つの車輪(全て木製)の付いたもので
使用者は胡坐(ござ)などで座り、手に持った棒で地面を突くものや、取り付けた縄や手押し部分で
介助者が動かすもの等がありました。


1.日本の車いす使用
日本では大正初期(1915年)頃に、アメリカやイギリス等から輸入した車いすが使用され始めました。 
しかし外国製の車いすは大きく、日本人の体や狭い建物に合いませんでした。そのことから国産車いす製造のニーズが出来たと思われます。

2.国産車いすの製造
大正10(1921)年頃に「廻転自在車」と呼ばれた国産第1号と思われる車いすが製作されています。 
聖路加病院にアメリカから輸入された車いすを見本として製作し、陸軍病院に納入したのが始まりのようです。見た目は人力車を改良したような形でした。この車いすは両手で乗員自らがクランクを回し、その力をギヤとチエーンを介して車輪に伝達していたようです。前輪は大車輪、後輪キャスターの三輪型でした。 

3.箱根式車いす
その他に有名なのは、大正9(1920)年頃に某財閥の子息が病気になり、イギリスから輸入して使ったものを参考に、北島籐次郎商店によって製造された車いすです。 
フレームは鉄製、座席部分は北海道産のシオジという木材で作られ、座面や背面は藤で編まれたものを使用し、バックレストとレッグサポートが角度調整できる構造となっておりました。前輪は大車輪、後輪はキャスターの三輪型でした。この車いすは、たいへん重く折りたたみが出来ず機動性よりも安楽性を重視していました。
この車いすの改良されたタイプは、国立療養所箱根病院傷痍軍人に近年まで愛用されたことから
「箱根式車いす」と呼ばれるようになりました。

昭和20(1945)年以降になると、鉄製の折りたたみ式車いすも作られるようになりました。 
しかし第二次大戦後、多くの戦災障がい者がいましたが、当時、車いすなどは簡単に入手できず、ミカン箱に車輪をつけたものに乗っている方もいたといいます。昭和26(1951)年になってようやく、身体障害者福祉法が制定されてから徐々に車いすが普及されてきたのです。
 
昭和39(1964)年に東京オリンピックが開催され、その直後にパラリンピックが開催されました。 
世界各国から競技用の車いすやアクティブなデザインの車いすが多く集まり、日本は国産の車いすとの違いを歴然と見せつけられました。このイベントを境に、日本の車いすは大きく変化していきました。※※ 

以上が簡単な「日本の車いすの歴史」です。

「土車」「いざり車」などの様に日本の場合は『「車輪イス」というより「車イス」のイメージが
強いのでは?』と改めて思いました。

……という事はCIL・昭島代表の『「車輪イス」は海外の発想で「車イス」は日本的な発想では?』
という考えは正しかったという事になるのでしょうか…

皆さんは、どう思いますか?



では、また次回  K


補足:北島籐次郎商店とは現在の株式会社ケイアイの前身に当たります。


※※1.日本の車いす使用~5.東京パラリンピックまで:(株式会社ジェー・シー・アイ第5回車いすの歴史「日本国内編」)より引用

車いすの前に…~補足参考:ウィキペディア