(旧)自立生活センター・昭島の日常

東京都昭島市でひっそりと(笑)活動している福祉団体。地域で暮らす障害者の生活サポートや情報提供、移送サービスなどをやっています。

『空飛ぶトラブルメーカー 「障害」者で私生子の私がいて』

 
 

事務所には、何故かこの本が3冊もある(笑)。
そのうち1冊は、何年か前に、図書館での廃棄図書に指定されていて“ご自由にお持ち帰り下さい”状態だったのを引き取ってきた本だ。

多摩地域のCIL関係者には、境屋純子さんは有名人だと思う。
CILの介助者や幹福祉会のヘルパーなら、一度はその名前を聞いた事があるだろう。
または、各種研修の講師として接しているかもしれない。
……個人的には、ほとんど接触した記憶が無いんだけれども(笑)。
 
その境屋さんが書いた本を、さっそく読んでみた。
図書館からもらってきたのに全く読んでいなかったのだ……。
内容は、障害者なら必ず1冊は書けるという半生記だった。
 
 





 
駆け落ちの末に結ばれた両親の下に生まれた境屋さん。
両親に婚姻関係はない、所謂事実婚として過ごしていた。
(ちなみに。20年前には「事実婚」という言葉は無かったのか、そのような記述は出てこない。)
また、兄と姉もそれぞれ他家から引き取られた子だったので、直接の血縁関係があるのは母親のみ。
それでも、家族として当たり前のように暮らしていた。
この家族関係の在り方は、境屋さんのその後の人生に大きな影響を与えている。

7歳で施設に入所し、養護学校高等部卒業後に決まっていた施設入所を蹴って、東京で暮らしている先輩らを頼って「家出」した境屋さん。男性2人女性1人の共同生活から始まった東京暮らしも、1人が自立する事によって事実上の同棲生活になっていった。更には1人暮らしも始め、大学受験も目指す。
いくつかの大学に問い合わせてみてもほとんどが梨の礫だったが、柔軟に対応してくれる大学もあった。
試験自体は、境屋さんが指定した条件を汲んでくれる形で行なわれた。しかしその後の状況は芳しくないものであった。合格ラインに達しているものの、大学側が受け入れるに当っての条件や、成人しているにも関わらず保護者へ念書を書かせるなど、不愉快な事ばかりされてしまう。
大学側の「受け入れてやってもいい」という横柄さに、入学試験には合格したが喜びは感じなかったという。
それでも、車いすで大学進学を目指す後人のために、学生生活を選ぶことになる。

大学1年の時に妊娠が発覚し、第一子が誕生する。
事実婚の家庭に育った境屋さんは、戸籍に縛られない生活スタイルを選択しようとしたが、パートナーを含む周りの者の賛同は得られず、皆一様に「子どもがかわいそう」と否定的であった。
その当事の境屋さんの生活スキルでは、子どもを1人で育て上げるには大きな不安があったため、最終的には入籍する事となる。
かくして、大学生と妻・母親の二足のわらじ生活が始まった。
学生生活を送りながらも、仲間内でミニコミ誌を発行したり、更に子どもも増えたり、卒論もこなし、その上障害者運動への関わりを持つというアグレッシブな日常を送る境屋さんは、5年後に無事大学を卒業する。

介助者を入れながらのスッタモンダの子育ても落ち着いてきた頃に、第三子を妊娠する。
その当時、優生保護法関連で女性たちから「中絶する選択の自由」を主張する声が上がっていて、しかし一方で、青い芝の会に代表される障害者運動もあり、女性であり障害者である境屋さんも、その狭間で揺れていた。
母体か胎児、どちらかを考えるのをやめ、障害者である事にこだわり、産む決心をする。
子育ても3回目となると、それまでの2人と違って、随分奔放というか大雑把というか……(笑)。

数年後に大きな事件が勃発する。
それは、普段と変わらないささいな夫婦喧嘩だった。
夫との喧嘩は今に始まった事ではなく、どちらかがプイと家を出てしまえば収束するようなものだった。
その時も勢いに任せて一番下の子を連れて家を飛び出してしまった。
しばらくは知人宅を転々としていた境屋さんは、夫婦間の関係修復のための話し合いを続けていたが、2人の考え方は平行線のまま交わることはなかった。話し合いは、ついには離婚のためのものになっていく。
境屋さんは、アパートを借り第三子との生活を始めていた。
この時期にコ・カウンセリングを受け、自分の世界が大きく変わるのを感じた境屋さんは、より積極的に行動するようになる。
子どもを連れて“福祉の先進国”であるスウェーデンへ知人を訪ねたり、オーストラリアやアメリカにも行き、現地で介助者を使いつつ子どもと2人で過ごしていた。

ついに離婚が成立した。
家出をした時のまま第三子の親権者として落ち着いた。
境屋さんは、自分自身を大切にし、自分のやりたい事をやる。自分の気持ちを満たす事を心がけるようになった。
それは子どもについても同じで、学校の事は本人に任せるようにしていった。半登校拒否のような状態になってしまった息子を、なだめすかして登校させようとした事もあったが、最後は疲れ果て諦めてしまった。
その後近所のフリースペースに通うようになった子どもも、引っ越しを機に学校も変わり、なんとか登校するようになっていった。

また、ピア・カウンセラーの職に就き、近々、自身の世界を変えたコ・カウンセリングのリーダーも始める予定という。元夫との関係も良好に回復してきた。
一度きりの人生を、思い切り楽しんで生きていきたい。「人生、お好きなように」という言葉で、本書は締められた。
 
 

漠然としたモヤモヤ感が残るのが正直な感想だ。
境屋さんの人となりを知らない、この本を読んだだけでのイメージから、“私だけが正しい”という選民意識を感じてしまう。
「私が私の人生を楽しむのは当然のこと」という考え方を実践しようという、前向きな姿勢で書かれている本なので、“私だけが正しい”はある意味間違ってはいないと思うが、素直に肯定できない感情が沸き上がってしまう。
それは即ち、僕自身が「自分の人生を楽しむ」ことを実践できていないからなのだろうけど……。
……そもそも、境屋さんには選民意識なんてこれっぽちも無かっただろうけどね(笑)。
“自分が気にしている事を指摘されると、その通りなだけに腹が立つ”の法則と同じで、当たり前の事を当たり前に主張されている事への反発なのかもしれない。つまり、逆切れか(笑)???

 

とはいえ、今では当たり前になりつつある事も、その当事は異端扱いされたり否定されたりと苦労が耐えない時代だったようだが、それを持ち前の行動力で切り拓いていく姿勢には、頭が下がる思いがする。
境屋さんが、先駆者的人物として語られるのも充分頷ける。
本書の執筆から更に20年経って、この当時の事をどう振り返るのか。または、当時からの20年をどう語るのか。ちょっと興味があるかな……。
 
 
 
 
by:は